COLUMN
個人の「機能」に着目する、
脱能力主義の観点で臨む従業員のキャリア支援
組織開発コンサルタント 勅使川原真衣氏インタビュー
少子高齢化による労働人口の減少や、人生100年時代の到来、個人のキャリア観の多様化など、企業や働き手を取り巻く環境は大きな過渡期を迎えています。そんななか、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで企業価値の向上を目指す「人的資本経営」が注目されるようになり、数年が経ちました。
「人的資本経営は、人の『能力』に焦点を当てすぎている点に違和感がある」と話すのは、2024年6月に『働くということ「能力主義」を超えて』を上梓した勅使川原真衣氏です。キャリア開発を「個人の能力をどう伸ばすか」ではなく、「組織として個人の機能をどう生かすか」という組織の問題として捉えるべきと話す勅使川原さんに、脱能力主義における従業員のキャリア支援や、それに伴う組織・上司の役割、人材活用のあり方について、詳しく伺いました。
高い能力を持つ「優秀な個人」を輩出しようとする、人的資本経営の違和感
勅使川原さんは自著やさまざまな媒体で「人的資本経営」への違和感を述べられています。具体的に、どういった点に課題を感じているのでしょうか。
人的資本経営の「優秀な個人」をより多く輩出しようとする風潮に大きな違和感があります。「優秀な個人をつくる」はつまり人材開発なわけですが、人材開発という言葉には「よくない個人をよくする」という前提を感じてしまうのです。
仕事は本来、優秀な「能力」を身につけた人1人が事業を回しているわけではなく、個人が持つ凸凹とした持ち味の違いを組織の中で組み合わせることで成り立つものだと考えています。持ち味とはその人の発揮しやすい「機能」と言ってもいいでしょう。会社や事業の成長は、その職場で各個人の機能が生かされているかどうかといった組織全体の構造の問題であるはずなのに、人の「能力」に焦点を当てすぎて考えていませんか?というのが、人的資本経営に対する私の疑問です。
「能力開発」「人材開発」といった指標化しやすい、わかりやすいところに目を向けがちになってしまうのが、人的資本経営を実践するうえで陥りがちな罠と言えそうですね。
よく、エビデンスに基づいた科学的人事戦略と言われますが、それは数値的にわかりやすいだけで、いろいろな事象のそぎ落としであるという認識を持つべきではないかと思いますね。
だからといって、私は経営者や管理職を責めているわけではありません。彼らは彼らで成果を挙げなくてはいけない。そうした意味で「わかりやすさ至上主義」に乗らざるを得ない部分があるのです。
もう1つ言えば、「能力」で評価する会社の人事制度に疑問を持つ人はたくさんいると思うのですが、現在管理職になっているのはその組織構造のなかで昇格してきた人たち。組織の否定が自己否定につながりかねません。組織にとって耳の痛いことを言う人は人格的に批判されやすく、評価につながらないという悪循環もあります。評価のことを考えると、自分から弱さを露呈することもできず、つい強がってしまう。そうしてみんながみんな弱さから目をそむけ、痛みを許容せざるを得ない状態に陥っているのではないかと思います。
アクセル、ブレーキ、ハンドル……組織は「機能」の異なる者同士の集まりである
そもそも「能力主義」とはどのようなものなのでしょうか。
私は能力主義とは、身分制に代わる配分原理だと考えています。1840年頃、日本では近代化に向けて士農工商が解体されました。このとき、それまで身分によって配分されていた「もらい」の差をどう説明すればよいか、偉い人たちは頭を悩ませたと思います。そこで登場したのが能力主義でした。「できる人は多くもらえる」「できない人はあまりもらえない」というように、身分ではなく能力によって「もらい」に差をつけようとしたのです。
けれども、そもそも能力のある・なしは、そのときの状態によって変わることがあります。そこに「差」をつけようとすることに無理があるんですよね。
にもかかわらず、当時急ごしらえでつくられたはずのこの理論は、現代においても未だ蔓延しています。学力テストの点数はもちろん、「生きる力」「リーダーシップ」なども能力の1つと数えられるようになりました。能力が低いとされる人たちは「テストでもっといい点数を取ってから言えよ」という形で口をふさがれてしまう。この状況はいびつですよね。
それがわかっていても、能力主義の社会システムの中でのし上がってきた人たちは自分からそのシステムを解体しようとはしません。どんなにリベラルな人たちも、自己否定をしたくないからです。だから学歴などの能力主義は無効化されにくいんです。
すでにできあがっている社会構造を変えるのは容易ではないということですね。社会にはびこる能力主義が、実際に職場でどのような弊害をもたらしているか、詳しく聞かせてください。
能力主義には、垂直方向に人間を並び替える「序列化」をする作用があります。具体的に言うと、組織の中で「できる人」「できない人」を決めたり、採用する過程で「自社にふさわしい人」を選抜したりするわけです。
以前のように人材が豊富にいた時代はそれでもよかったのですが、今後労働人口が減少していくなかで、会社側の「自社にふさわしい人を選んでやろう」という姿勢は通用しなくなるでしょう。
パーソル総合研究所の研究では、45.5歳でキャリアについて終わりを感じ、仕事へのモチベーションが下がっていくという結果が得られています。これはキャリアを序列で捉えることの弊害と言えそうですね。
キャリアを序列で考えている人はモチベーションが下がるかもしれませんね。45歳くらいになると誰しも一定のプロフェッショナリズムを持つものです。そうした異なる強みを組織内で組み合わせるほうが幸せですよね。けれども私たちは学校時代から能力主義に慣らされてしまっています。会社はもちろん、家族やパートナーシップ、学校のクラスルームマネジメントでも、凹凸がうまく組み合わさって運営されるものだという考え方へと転換するべきだと思いますね。
組織を車にたとえるとわかりやすいのですが、事業を推進するためのアクセルだけあってもダメなんです。ボディも必要だし、タイヤも必要。ハンドルも同じです。もっと言えば、走っている車を止めるためのブレーキも不可欠です。組織はこうした、機能の異なる人たちの集まりなんです。
能力主義を超えるには、存在自体を承認すること
脱能力主義はとても難しいことのように感じますが、能力主義を超えるための第一歩として、企業はどんなことに取り組めばよいのでしょうか。
管理職の方には部下を評価するのではなく、よく「観察」してほしいですね。
能力主義は「断定」「他者比較」「序列化」の3つのステップから成り立っています。「あなたはこういう人間ですよね」と決めつけられ、他者と比較され、序列化されると、部下の心に「傷つき」が生まれます。人は変わっていくものであり、断面を切りとって断定したり、他者と比較したりしても仕方がないにもかかわらず、です。
だから、1on1など対話をする機会にはジャッジする姿勢で臨むのではなく、相手に対し「あなたにどういう機能を期待していて、3か月後にはこうなっていてほしい」と伝えられるといいですよね。自分の目には部下がどう映っているか、それに対して部下はどう思っているか、お互いに景色の交換をし合える機会であってほしいと思います。
もう1つ、謝意を伝えることも大切です。「この部署(チーム)にいてくれてありがとう」と言われて気分を悪くする人はいません。私はこれを「謝意から始める組織開発」と呼んでいますが、まず感謝を伝えたうえで、観察や各々が見えている景色の交換をしてほしいと思います。
これまで組織開発に携わってきたなかで、勅使川原さんが経験した脱能力主義の事例があれば教えてください。
『働くということ「能力主義」を超えて』という著書の中でも紹介した、人材会社で働くシンさんの事例ですね。10年に1人の逸材と言われるシンさんは、一元的な正しさしか認めない超能力主義者でした。「自分の部署ではコンサルタントを募集しているが、何人面接しても優秀な人材に出会えない」と、シンさんから相談されたのです。
始めに考察したのは、「採用が進まないのは、本当に労働市場に優秀な人がいないことが原因なのか」でした。そもそも組織にどんな機能が欠けているのか。その機能を保全するためには必ずしも万能なエリートである必要はないのではないか。そこからスタートし、採用の方針を変えたことで、持ち味を生かし合えそうなメンバーを迎え入れることができました。
シンさんの考え方を変えてもらうために、具体的にどんな取り組みをしたのでしょう。
シンさんの意識を変えてもらうために粘り強く対話を重ねました。そのなかで、実はシンさんのお父様は有名な会社の常務執行役員で、能力主義のもと厳しく育てられたという話が語られました。これはシンさんの「傷つき」ですよね。そこで私は、それはシンさんだけでなく、みんなが抱えている「靴ずれ」であると伝えました。靴ずれをしたまま同じ靴を履かされたら痛いですよね。それでもまだ能力主義を続けて、自分たちが希望する人を本当に採用できますか?と。
このように、自分の傷つきを認めることが脱能力主義の第一歩なんです。能力主義は、「能力があればここにいてもいいですよ」という条件付きの愛。一方で、脱能力主義は存在自体を承認する無条件の愛なんです。マネジメント構造を変えていくには、管理職が自分自身の傷つきを認めて、メンバーと一緒に組織のあり方を一緒に見つけていこうとすることが必要なのです。
組織の設計図を描き、必要な機能を持ち寄る
脱能力主義の観点から従業員のキャリア自律を支援するには、どういった取り組みをしたらよいと思いますか。
従業員のキャリア自律を支援しようとするならば、まず組織の設計図を描くことから始めます。たとえばこれから取り組もうとしている新規事業を1つの車だとすると、すでにアクセルはあると。あとはブレーキが必要なのか、ハンドルなのか、タイヤなのか。会社側がその事業に必要な機能を言語化して、そこに従業員が持つ機能を持ち寄って適材適所に充てていく。その過程では、同じ業界内の他社の組織風土のほうが機能を発揮しやすい人も見つかるかもしれません。
そのとき、上司は従業員とどういう対話をしたらよいのでしょう。
まず、管理職は組織が描く機能の全体像を把握しておく必要があります。かつ、従業員を観察すること。
会社が描いた設計図に対して従業員が「ちょっと違うな」と感じているのであれば、異動を願い出てもらったり、OJTの組み合わせを変えたりしてもいい。組織の中で、機能の組み合わせをどう変えていくか、その可能性を探れるような対話ができれば理想ですね。
お話を聞いていると管理職の観察眼が重要だと感じるのですが、観察眼はどのように磨くのがよいと思いますか。
観察と、それをもとにした対話ができているかどうかを評価指標の1つにしてみてはどうかと思います。「あなたが発揮しやすい組織の「機能」はこう見えていますが、どうですか?」という対話が部下との間でできているかどうか、評価自体を見直すのは1つの手段です。
また、間違いを犯したら訂正する組織風土を形成しておくことも大切ですね。権威のある大人でいようとか、間違いを犯さない管理職でいようと思う必要はありません。間違ったら「ごめんなさい」と謝罪して、訂正すればいいのです。
もう1つ、SPIなどの適性検査は従業員個々の機能を観察するヒントになります。やるだけやってお蔵入りにしている会社は少なくありませんが、ぜひ観察の材料にしていただきたいですね。アメリカの組織心理学者エドガー・シャイン氏が提唱したように、「文化」は「仕組み」がつくるものなのです。
私は、弱さは誰もが抱えているものだと思っています。会社の中でその弱さを告白するのは勇気のいることです。けれども、弱さを告白できる社会のほうが強固になっていけると考えています。自分の傷つきをさらけ出せる。そうした機運を社会全体で醸成していきたいですね。